第48回
日本で生まれた初めての〈パラドックスの歌〉のパイオニアが高田渡!
2017/03/23
「これはぜひ見たい」と思って、3月10日(金)、東京渋谷の渋谷区文化総合センター大和田・伝承ホールへ出かけてみた。
「なぎら健壱は正統派実力フォーク・シンガー!」
なぎら健壱はタレント、俳優としても活躍しているが、元をただせばれっきとしたフォーク・シンガーである。そのことを正確に知っている人はどのくらいいるだろうか?
彼が注目されたのは1971年に行われた〈第3回全日本フォーク・ジャンボリー〉のことである。おもむろにステージに登場した彼は、加川良のアングラ・ヒットした名作「教訓Ⅰ」をあつかましくも詞を変え、“イモ酎は60度――”と歌い出したのだ。
ところが、これが異常に受けた。以来、彼は“替え歌”の名人と異名を取る。実際、彼の作る替え歌は素晴らしかった。名作とされている「旅のドヤ」。これは吉田拓郎の大ヒット「旅の宿」の替え歌だが“…もう一発いかがなんて”とすさまじい。
そして彼の名前を全国にとどろかせたのが「悲惨な戦い」(74年1月25日発売)だった。これは若秩父のマワシが落ちて国技館が騒然となったという内容だが、実にリアリティーがあった。この曲のヒットで名をあげた彼だが、実は正統派で、なおかつ実力派であるということを忘れてはならない。
そのことは彼のライブを見ると明らかである。だからこそ、フォーク・シンガーのパイオニアともいうべき高田渡の歌を取り上げてトリビュート・コンサートができるのだ。
「今が旬のミュージシャン!高田漣」
高田漣は高田渡の息子で現在43歳。弦楽器全般を扱うミュージシャンとして評価が高くまさに今が“旬”の人物である。
なぎらと高田のコラボレーションが素晴らしかった。ミュージシャン同士の息の合い方と、それからなぎらの先輩の高田渡の息子という独特の人間関係がうまく溶けあっていて、2人の演奏にはえも言われぬオリジナリティーがあるのだ。
また、高田渡にまつわるエピソードを2人で語ることで、そこにはいないはずの高田渡があたかもステージ上に存在していると錯覚させてしまうトークの絶妙さ。これはこの2人だからこそできたエンタテインメントである。それにしても、高田渡という人は死してなお存在感抜群の大物フォーク・シンガーである。
「コラボレーションが高田渡の歌を現代に蘇らせる!」
なぎら健壱と高田漣のコラボレーションによって、高田渡の名曲たち「銭がなけりゃ」「値上げ」「自衛隊に入ろう」などが新しい命を得たようだ。また、2003年12月に高田渡のカバー曲「コーヒーブルース」でデビューした辻香織となぎら、高田漣による3人のコラボレーションも新鮮で良かった。ここには歌の楽しさが満ちあふれていた。
それにしても「銭がなけりゃ」から「この世に住む家とてなく」まで本編の15曲、加えてアンコール「生活の柄」「自転車にのって」までの全17曲を聴いて、改めて思ったことは、高田渡のことをもっと知りたいし、きちんと歌を聴きたいということだ。そんなふうに思っているのは私ひとりではないだろう。そこで参考までに高田渡一口メモを紹介しておきたい。
「日本で生まれた初めての〈パラドックスの歌〉のパイオニアが高田渡!」
高田渡は、アルバイトをしながら東京の市ヶ谷高校定時制に通っていた。その在学中、フォークに興味を持ち始め、音楽評論家・三橋一夫の所に出入りする。
やがて、三橋のコーチで添田唖蝉坊を研究しているうちに、唖蝉坊の言葉にアメリカ民謡の曲をつけることを思いつく。こうしてでき上がったのが「あきらめ節」。カントリー・タッチの実にユニークな歌であり、彼は古い歌を現代に見事に蘇生させたのだった。
高田の歌はたしかに新鮮だった。1968年にTBSテレビ「ポーラ婦人ニュース」が“フォーク・ソングは発言する”という番組を放送した時のことだ。この番組で高田は「自衛隊に入ろう」という曲を歌った。すぐさま自衛隊から反応がある。「あれはいい歌だから……」と電話がかかってきたのだという。
なにを勘違いしたのか、自衛隊批判の歌であるにもかかわらず、自衛隊賛美の歌と思ったのだ。詩人の松永伍一が「日本で生まれた初めてのパラドックスの歌だ」と評したのもうなずける。とにかく、高田の歌はフォーク・キャンプでひときわ精彩を放ち、確実にひとつの局面を切り拓いたのだ。
高田渡、もっと熱く語りたいフォークソングのパイオニアであり、再評価され再発見したい偉大なアーティストである。
(文/富澤一誠)
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