CHABO BAND 雨あがりの夜空に 2017 supported by LiveFans

スペシャルインタビュー
「歌詞への想い」

その日の自分の感情が歌に盛り込まれるタイプだと思う

CHABOさんのインタビューを読ませていただくと、日常を書くことが多いという発言をされてたんですけど。

もともとはティーンエイジャーの頃にノートにらく書き程度に書きなぐってたんだろうけど。その時は手法もへったくれもなくて唯言葉をノートに書き殴ってたんだよね。「あの子が好きなのにこっちを向いてくれない」「あの先公、ふざけんなよ」とかそういうことだろうけど(笑)。そういうことを歌にもするようになっていって。だから、ある種、日記みたいなことだと思うんだよね。そのうちにブルースに出会うんだよね。ブルースの基本的な書き方は乱暴に言っちゃえば例えば「Wake Up This Morning(My Baby's Gone)」みたいなね、それもある種、日記なわけじゃない。最初は、そういうブルースみたいな言葉の書き方が自分のお手本となったのかな。ジョン・レノンの歌詞を見ても、その時に感じたことを「ヘルプ!」って歌うわけだからね。俺だって、新宿をうろついてて怖い目にあったら「ヘルプ!」だったわけでね。で、デザインスクールに通い出して渋谷でバンドもやり始めた頃に天井桟敷とちょっと関わることになる。その時の「ことば」というもののインパクトは大きかった。

これまでご自身で作詞をずっとしてこられて、テーマとか歌詞を書く手法や書き方の変遷というのは何かありますか?

ファーストアルバム『THE仲井戸麗市BOOK』では自分の中の感情の集大成みたいなことをしたかったのね。基本的には、それは何かに向けての怒りなんだけど、「それを一回爆発させないと次へ行けない」みたいなところがあって。そういう「自分の唄の書き方に区切りをつけてみたい」っていう発想はあった。RC時代の俺のソングライティングも「てめぇ、ふざけんな」っていうのが多分基本路線だったから(笑)。それで、30ちょいぐらいに『絵』っていうアルバムを作るんだけど、その時は「感情よりも視覚的な歌とかってできないのかな?」って思ったのね。例えば、松本隆さんの歌詞の色彩とかね。彼ははっぴいえんどですごくそういうことをやったわけじゃない。「何て色彩感がある歌を書くんだろう、この人は」みたいなね。『絵』っていう図々しいタイトルは、そういう意味合いがあるんだよね。具体的な言葉のチョイスも含めて、なるべく色合いのある言葉を選ぼうとか視覚的なタッチとかいろいろ自分でトライし始めた。いわゆる手法の変化だよね。麗蘭をスタートした時は少しシュールにいきたかったから、抽象画な描き方というかね。麗蘭のファーストはそういうところに向かってた。で、ある時期がきたら、また戻るんだけど。年齢も含めて、リアルなところに向かわざるを得なくなった現実というものが日常生活に出てくると「シュールなことを言ってる場合じゃないだろう?」みたいなね。今は、そのバランスを取りたいっていうところにきてるけど。土屋(公平)君なんかも「CHABOさんは、ある時、シュールだったけど、また書き方が変わってますよね」みたいなことを言ってた。それは全くその通りで、俺の中での歌の書き方の変化はあると思う。それと例えば、物語を設定して書くのはできないタイプかな。「男と女がカフェバーで出会って愛が生まれて、やがて別れて」みたいな物語を本当に上手に書く人がいるよね。トライしたことはあるけど、自分でも赤面するぐらいのタッチになっちゃう(笑)。「あ、もう俺はこういう書き方はないな」ってわかった。自分なりの挑戦はあるけど、基本的には、その日の自分の感情が歌に盛り込まれるタイプかな。これは良し悪しじゃなくて、ソングライターのスタイルの違いかな。

歌詞とポエトリーはそれぞれの面白さと難しさがある

曲と詞は一緒に作られるんですか?

断然、曲が早い、先に出来ちゃう。

曲が先ですか?

曲はどんどん貯まっちゃう。「こんな曲を作りてぇな」っていう曲調はたくさんあるんだよね。日常でレコード、CDを聴くわけじゃん、好きなアーティストとかさ。そしたら「あ、こんな曲調いいな」って普通に思うわけじゃん、まずはリスナーとして。で、ソングライターとして「俺もこんな曲を作りてぇな」っていう無邪気なところから曲作りが始まるんだけど、歌詞っていうのは簡単に出てこないから、曲ばっかり貯まっていくね。言葉は悩む。だから先に言葉がある曲はできるのが早いね。 まあもっと言えばテーマというかね。

リーディングもやってらっしゃるんですけど、ポエムと歌詞の違いはどこだと思いますか?

やっぱりひとつにはリズムかな。それから言葉の量もそうかもしれない。でもボブ・ディランみたいにものすごい量を歌い込んじゃう人もいるからね。あの人はあまりにも特別だけど。アレン・ギンズバーグが昔日本にきた時、たまたま観に行けて、「どうやってリーディングするのかな?」と思ったら、手で足を叩きながらリズムをつけてやるんだよね。俺は歌うという場所があるから、そういうふうにはリーディングしなくてもギター持って唄うという方法で成立させるけど。(音楽の)リズムに乗せなくても、「読むリズム」に乗せればいい、なんて方法論とかもだね。

昨日、CHABOさんの歌詞を聴くんじゃなくて読んでみたんですけど、古井戸時代から比べると、言葉が増えてるのかなと思うのと同時に、CHABOさんの歌詞は絵画に見える時と短編小説に見える時といろいろあって、CHABOさんの「歌詞」と「詩」とは、かなり近いタイプなのかなと思ったんですけど。

歌にしろポエトリーにしろ、基本的には自分の日常とか昨日体験したことが出るから、ある種のフィーリングとか匂いはとても似ているかもね。(詩と歌詞の違いは)リーディングする詩は散文っていうか、バッて書いちゃって、それを読めばいいっていうのがどこかにあってね。曲にする時は譜割りとか合わせなきゃいけないというのもあるからね。そうは言っても、譜面にしっかり書いて合わせるみたいなタイプでもないから、字余りだったりもするわけだけど、それにしても一小節に言葉をこれだけしか入れられないとか、あるじゃない。音楽ってある種の形があるから。特にバンドはね。リーディングは、何かもうはみ出してもいいとかね。上手く言えないけど、そういう違いはある。両方の難しさと、両方の良さ、面白さはあるのかな。歌ではできないポエトリーの面白さもあるし。

CHABOさんの歌詞は谷川俊太郎と同じように読めると思うのですが。

それは恐れ多いけど。谷川さんは本当に大詩人だからね。だから、俺の気持ちの中ではね、谷川さんはギターを弾いて、これを歌うことはできない。そこを俺はやっぱりメリットとして使わなきゃっていうね。使えるんだっていうね。拙いギターと拙いメロディでもそれを合わせればなんとかいけるスタイルがある。谷川さんみたいな本当の詩人は詩だけで勝負するわけだからね。遥かなレベルでね。

いずれは簡素な言葉に辿り着きたい

CHABOさんがこだわっている言葉の選び方はありますか?

日本語の綺麗な、今では使わなくなった言葉を感じることが、昨今すごくあって。だからと言って、万葉集的な詩を書きたいとかそういうことじゃないんだけどね。例えば、2017年にこの国にこの町に暮らして、日常を送って、たまたま歌を書くやつだったら、しかも英語で書くことを方法として持たないやつだったら、「日本語でいい言い方がないかな?」とか、そりゃあ毎日探してる。映画を観ようが、テレビを観ようが、そういうものを探しちゃうんだよね。「いい言葉がないかな?」って。「いい言葉、自分の歌にふさわしい言葉、他に使ってない言葉がないかな?」って。 こりゃあもう宿命(笑)。

最近、若い人たちの中では、歌詞は簡単でわかりやすいものがいいっていう風潮があるらしいんですけが、それについてはどう思われますか?

似たような感覚は、俺も持ってるかも。それは今、ちょっと辿り着き始めたい、もしくは辿り着きたいところなんだけどね。古井戸なんかの時に比べると、言葉は増えてるよね。やっぱり書きたいことを書くためには言葉はすごく多くなっていくよね。その良さもたくさんあるんだけど、昨今は何か簡素化したいっていうか。例えば、俺の親父がやっていた俳句じゃないけど、五七五に気持ちを込める、その技術も含めてね、もっと簡素に「今日は暑いね、でも何かいい日をすごしたいな」って言うだけで、何かを表現できないか、とかね。ちょっとそこに向かいたいっていうか、いずれはそこに辿り着きたい、遥かなる境地だろうけどね。わかりやすく言うと、普遍的な歌って多くはそうだと思う。「上を向いて歩こう」や「幸せなら手をたたこう」。それに対して「そんな単純なことじゃねーだろう」っていう思いもあるけど、「やっぱ“幸せなら手をたたこう”ってすげぇな」っていうね。それはある種の普遍性だよね。サッチモ(ルイ・アームストロング)の「この素晴らしき世界」しかりね、ああいうところへ辿りつきたい。自分のレベルとしてね。いろんなことを歌ってきて、最後に「今日は空が青いね」っていう歌を書けたら、やっぱりすごいなって思うから。若者が簡単な歌がいいっていう風潮ね、それは、もしかしたら似てるかもしれない。だけどどーなんだろう?裏を返すと「笑わせんなよ、小僧。ちゃんとたくさんのいろいろな歌を書いてから言え」っていうところもあるけど、もしかしたら「うゎ、本当にそういう歌をちゃんともう書けちゃってんだ?」っていう子もいるかもしれない。今やいるよ、きっと。「うゎ、すっげーな、こいつ」っていうやつが。

CHABOさんご自身の曲でも、他の方の曲でもいいんですけど、お気に入りの歌詞ってありますか?

たくさんあるよ、それは。だって「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」だって、すごい歌詞なわけなわけだしさ。「ムーン・リバー」だって、サッチモの「この素晴らしき世界」だって、すごい歌詞。すごい演歌だってあるよ。フォークだろうとロックンロールだろうとセックス・ピストルズだろうと「すげぇな」と思う歌詞はたくさんある。技術的にすごいっていう歌詞もあるしね。「こいつはフィーリング的にはダサいんだけど、この技術はすごい!」っていうのもある。自分の曲に関しては、子供みたいなものだから全部愛してるってことだけど、自分の中でのその曲のレベルってのはわかるから、お気に入りってのはやっぱりあるよ。

CHABOさんもいろいろ技法って使ってますよね?

俺のレベルでね。

昨日、歌詞を読んでいて思ったのが、淡々と書いてるのに心情のところだけ丁寧語にするとか 「どのくらいだろうか」の「くらい」が「泣く(cry)」になってるとか。

あ、そういうのはよくやるね。清志郎なんかもね。言葉の面白さっていうか遊びっていうね、英語にひっかけてね。俺の最近の唄で「let you down」を「連中だ」とか、そういうことは、いろんなやつがやってんじゃないかな。 大滝詠一さんなんかは、大巨匠だけどさ、ことばの区切り方の技法とかね、「ありがとう」を「あ、りがとう」とかさ。彼なんかは革新者だよね。

素手の人をナイフで突き刺すような歌詞は卑怯だと思う

歌詞を書く時に気をつけていることはありますか?

どこで誰かが傷つくかわかんないみたいな言葉。それは怖いよね。自分も傷ついたことあるし。若い時は自分も誰かに対してやってたろうけど、もう嫌だね。少なくとも意識しては、そういう歌は自分も聴きたくないし。自分の年令や何かも含めてそういう心境なんだろうけど、歌で突き刺すのは、ある意味簡単だし、卑怯だと思ってる。だったら「おまえ、素手で立ち向かえ」っていうね。気楽だよ、歌で突き刺すなんていい気なもんだし。それ、自分の若い時にも問いかけてるんだけど。「本当に、おまえ、それで立ち向かったつもりかよ?」みたいな。そこに気がつけたから、年をとるってことはよかったとも思ってる。若くして亡くなった詩人なんかは、もしかしたらそこに気がつかなかったなんてやつもいたんじゃないかな。まあ、それの良し悪しも思い方の自由だろうけど。自分が不条理だと思ったことを自分の書き方で提案するとかね、「そのことってどうなんだろう?」っていう問いかけは、ソングライターの役目としてありだと思うけどね。素手の人をナイフ持って突き刺すような歌はもう書きたくない。ある時期から、そういう歌が生まれそうになっても抹殺するかな。有無を言わさず殴るなんてやつがいるわけだから。具体的な暴力は勿論、言葉の暴力は怖いし、卑怯だよね。何かそういうことを自分に問いかけてるっていう感じはある。

最後に若いミュージシャンの人たちにメッセージをお願いします。

まあそういうことは発しないタイプなんだけど、俺も音楽やってるハシクレとしては、若いミュージシャンでとても刺激を受ける連中がいたらもっと出会ってみたい。「何でこの子ってそんな表現とかできんだろう?」「何でそんなギター弾けるんだろう?」「何でそんなドラム叩けんだろう?」。音楽じゃなくても「何でそんなサッカーボールを上手く蹴られるんだろう?」とか、スポーツでも絵でも山登りが得意って何だかわかんないけど、「何かそういうことに出会えたら、それで生きて行く価値があるぜ」みたいな。それがたまたま俺は音楽だったから。もしも音楽好きな子達がいたら、たくさん大好きな音楽を探してくれよ。ミュージシャンになろうとする子じゃなくても、音楽で何かが救われたりとかね、そういうこともやっぱり自分でも痛感し始めてるから。少し気分が楽になったり、音楽ってそんな救いが本当にあるなって、また感じられてるから。たくさん良い音楽を探したり、ライブに行ったりして、そんなことでも気持ちが輝いちゃうみたいなことあるだろうからね。何か、それぐらいの呼びかけかな。若いミュージシャンには、なんかそんなポジティブないかした音楽聞かせてもらえたら嬉しい....なんてことかな。それとまあこれは自慢というか(笑)誇りというか、俺はティンエイジャー時代に1960年代という(40年〜50年代を布石として)、Rockの輝かしき時代を体験して来れた。その頃の音楽はやっぱり燦然と輝く宝石達だから是非たくさん聞いてくれよってな....かな。聞いてんだろうけどさ(笑)。


(インタビュアー:ライブファンズ代表 渡辺泰光)


歌詞について