第31回
〈加藤登紀子コンサート ピアフ物語〉は彼女がひとりで語り歌う斬新な〈ひとり歌・芝居〉である。
2016/07/14
内容は世界的な歌手・マレーネ・デートリヒを語り部として登場させて、本編の主人公であるこれまた世界的な歌手・エディット・ピアフの生き方と彼女の生きた時代を、加藤がひとりで語り歌うという構成。
〈第1幕〉は「また恋しちゃったの」で幕が上がった。そして、こんなセリフからスタート。
「マレーネ・デートリヒです。エディット・ピアフの生きた時代とはどんな時代なのか、まずは私の紹介からはじめましょう。私が生まれたのは1901年12月27日。(中略)今日の主人公エディット・ピアフが生まれたのは、そんな第1次大戦の最中の1915年。その出生が幸せなものであったはずがありません。(中略)過酷な運命を突き抜けた類稀なひとりの偉大な歌手!ピアフ14歳。パリの街角!」
ここからは加藤がピアフになって語り歌う。14歳のときに家を出てひとりで街角に立って歌い始めたピアフ。そんな彼女をまず見出したのはルイ・ルプレ。キャバレー〈ジェルニーズ〉のオーナー。こうして彼女は19歳のときにキャバレーで歌い始めてキャリアをスタートさせた。
しかし、そんな幸せな日々は長くは続かなかった。ルイ・ルプレが殺され、彼女はその犯人として逮捕されてしまったからだ。だが、彼女は負けなかった。エディット・ピアフの生みの親ともいえるレイモン・アッソーと出会い、歌手として徹底的に鍛えられた。こうしてまた歌手の階段を昇っていくことになるが、そんな中で、実の子、マルセルを2歳で亡くしてしまうという悲劇が明らかにされる。
〈第2幕〉はマレーネ・デートリヒの有名な曲「リリー・マルレーン」から幕が開く。
「私は幾つもの前線で、この歌を歌いました」というデートリヒのセリフから始まる。そして「彼女があのすばらしい愛の歌を作ったのは、戦争に押しつぶされそうな絶望の時代。ピアフには似つかわしくない、と言われたあの甘い歌をそんな時に作っていたのです。さあ、その歌で再び幕を開けましょう。『バラ色の人生 La Vie En Rose』」と言うと、「バラ色の人生」が始まる。ここからは加藤がピアフになりきって語り歌う。
戦争が終わった後のパリでは、イブ・モンタン、シャルル・アズナブール、ジョルジェ・ムスタキなどとの華麗な交流。そしてそんな中での彼女の夢は〈アメリカを征服〉することだった。その時彼女を応援してくれたのが他ならぬデートリヒだったのだ。
その頃、運命的な出会いもあった。プロボクシング世界チャンピオンのマルセル・セルダンだ。しかし、この世紀の愛は飛行機事故でセルダンが亡くなるという悲劇で幕を閉じることになる。ピアフはマルセルのためだけに歌った。それが「愛の讃歌」だ。
マルセルを亡くした後の彼女は心も体もメチャクチャでモルヒネと酒が欠かせなくなっていた。破滅へ向かってメロディーはエンディングに流れ込んでいく。そして1963年10月11日、午後1時10分、彼女は逝去。享年47歳。通夜の晩も葬儀も押し寄せた群衆でごった返してまるでお祭り騒ぎ、にぎやかな葬儀だったようだ。
ピアフの柩に最後の土をかけたのがデートリヒ。ピアフとデートリヒの切っても切れない運命を思い知らされる。
「62歳だった私はそれから10年以上、75歳で舞台を降りるまで歌いました」
エンディングのデートリヒのセリフが流れてくる。そしてある事実が明かされる。
「ピアフの死んだ1カ月余り後の11月22日、そのケネディーが暗殺された!」
当時アメリカは悲惨なベトナム戦争を続けていた。ピアフ物語のラストが近づいてきた。ラスト曲は何かな、と思っていると流れてきたのはPP&Mの「花はどこへ行った」だった。
現在、世界中のあちらこちらで戦火が絶えることはない。そのことをこの歌は静かに訴えかけているのだ。
マレーネ・デートリヒと「リリー・マルレーン」、エディット・ピアフと「愛の讃歌」は誰もが知っているが、デートリヒとピアフの人生がこれほどまでに交錯していたとは私は知らなかった。その意味で、このコンサートから大切なことを教えてもらった気がした。
エディット・ピアフ生誕から100年。ピアフを敬愛してやまない加藤登紀子がピアフの生涯をたどっていくノンフィクション作品「愛の賛歌 エディット・ピアフの生きた時代」(加藤登紀子著、東京ニュース通信社刊)もぜひ読んで欲しいと思う。
(参考資料 「加藤登紀子コンサート ピアフ物語」進行台本)
(文/富澤一誠)
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